被災地復興支援レポート

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東日本大震災被災地復興支援

被災地支援レポート

~4月23日宮城県東松島市宮戸地区~

私達が経験したことのない未曽有の大震災である東日本大震災は、被災後1ヶ月半が経過しても、未だライフラインが正常に復旧されてない地域が多数存在しました。 その中でも4月23日の時点でようやく本州との橋が復旧した「宮城県東松島市宮戸地区」に独自のルートで物資を持っていきました。

※宮戸とはこんなところ

宮戸島(みやとじま)は、宮城県東松島市の旧桃生郡鳴瀬町域にある陸繋島で、仙台湾の支湾である松島湾と石巻湾とを分ける位置にある。島としては、松島湾で最大の面積を持つ。人口は約1,200人。島はほとんど山地で、平地は少なく、海岸線が入り組んでおり、風光明媚な場所である。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)参照

宮戸地図

宮戸

現地に入ると、雨の中、瓦礫の撤去・道路の整備を作業している方達や自衛隊員がまず目に入りました。野蒜地区を結ぶ松ヶ橋が津波で壊れたのが原因で、未だに電気・水道・ガス・電話すべてのライフラインが遮断されているとのこと。道路交通網が復旧したのが2週間前とのことで、それまでの支援物資は、空輸や船便だったそうです。

瓦礫の山 自衛隊車 復旧松ヶ橋

今回私達を導いてくれた方は、この地で生まれ育ち、ブログやTwitterを通して被災地の状況を発信している男性とそのお母様。
男性からの情報によると、宮戸小学校を避難所としていた宮戸の住民は、4月5日に浜ごとに、避難所を設置して分散しており、宮戸避難所本部の場所は「縄文村歴史資料館 交流館」が、避難所本部として機能しているとのことでした。また物資の受取りや炊き出しもここで行われているとのことです。

※縄文村歴史資料館 HP

住所:宮城県東松島市宮戸字里81-18

宮戸の避難所が小規模で、送られてきた物資を保管する場所が無い為、縄文村避難所本部では、基本的に物資の受け入れを一時止めていたそうです。

ただ、仮設住宅が立つ前には、様々な物資が必要とされますので長期的な物資の支援をお願いしたいとのことでした。

縄文村歴史資料館 衣類など救援物資

必要な物資としては、保存可能な食糧(缶詰等)や消毒用アルコール、ウェットティッシュ、ティッシュ、トイレットペーパー、紙皿、紙コップ、珈琲、お茶、お酒、お菓子、下着類、靴下等とのこと。

4月23日時点でのライフライン状況

  • 食事は、朝・夕におにぎりが一人2個ずつ支給、その他、各地から寄せられた食料(パンや牛乳、ジュース、缶詰、調味料等々)が夕方配給。
  • 水道について、宮戸内は全て断水状態ですので、自衛隊の給水車が在中、仙台市水道局の給水車が1日2回、巡回。
  • 電気について、電線が通っている家屋のみ、東北電力の発電機で、4月25日から24時間の発電に切り替わる。ガスについて、宮戸内は元々プロパンガスだったので使用可能。
  • 通信について、
    固定電話はNTTのケーブルが通っており、繋がる家もあるそうで、ドコモの移動式基地局が縄文村歴史資料館横に在中しているのでドコモの携帯電話は、電波感度も良く、繋がるようです。Softbank、au は、宮戸内で繋がるエリアが限られているとのこと。 自分のSoftbankはずっと圏外でした。インターネット回線は繋がってない様子。

避難所にて物資を搬入した後、導いていただいた方に海岸の被災地を案内していただきました。海に近い建物は元にあった位置が全く分からない程、分解されて流されていました。

建物の基礎はきれいに残っているのが印象的で、その上に建っていた建物が丸ごと、 もしくは2階だけ流されているという、私には想像もつかないような光景でした。

瓦礫だらけ浜 高台を望む 残された基礎 2階は残り半壊状態 津波一時避難所 被害状況説明

海岸から距離がある高台に近づくにつれて半壊となった建物が目立ちましたが、びくともしないような大きな建物が高台付近まで流されている惨状を目の前に、津波の力の恐さをこれまでにない程痛感しました。

案内していただいた方のお母様は、これだけ大きな被害を受け、実際に一ヶ月半避難所で暮らされています。震災時はご自身の美容室でお客さんの髪を切っていたとのこと。 お母様は私たちにこう教えていただきました。

『この地区は、明治三陸地震の時に甚大な被害にあいました。それから大きい地震が起きた時は、すぐに高台に逃げるというスローガンが徹底されていました。これだけの被害で人命被害が少なかったのは、そのおかげです。』

この惨状を目の前に、何と声をかけて良いかわからなかった私達。その私たちが逆に励まされるほど、お母様は元気にお話しいただき、この春から小学校に入学するお孫さんのことを本当に楽しみにしているようでした。「必ず復興する」という言葉を胸に、お二人とお別れをした私達は野蒜を通り、石巻に向かいました。

野蒜

奥松島・野蒜海岸方面への玄関口である野蒜(のびる)駅は、構内やホームは一見、問題なさそうに見えました。
しかし土砂と瓦礫が散在しているだけではなく、線路がぐにゃぐにゃに曲がっているのを見て復旧には時間がかかりそうだと思いました。
この地域は海水が引かずに陸が見えず、地形が変わってしまっているとのことでした。

海水が引かず地形が変わった 線路がぐにゃぐにゃ 野蒜駅

石巻

弊社社長の知り合いの方へ、必要な物資を持参するため石巻市内の門脇中学校に立ち寄りました。

ここは高台にあり、沿岸部の被災された方々約300人の避難所となっています。体育館に立ち寄らせてもらいましたが、まさにTVで映っている避難所の光景でした。

通路以外は足の踏み場がないくらい布団やシートが敷き詰められており、沢山の方が避難されていました。体育館床の、固さ、冷たさ、振動は私にも容易に想像することができ、数か月の避難所生活は相当のストレスを感じていることと思います。

避難されている方達は、疲労が蓄積されているにもかかわらず、元気に遊んでいる子ども達もいてとても賑やかでした。
この体育館には有名人もお見舞いに来ており、栗原はるみ氏が料理教室を開催したことと、
内田裕也氏が「ロックンロール」=石巻(ロック&ロール)にかけてお見舞いに来たということを知りました。

体育館のステージには、物資配給を担当されている方達が待機しており、芳名帳のような記入リストに氏名を記載すると、制限がある食糧、文具などが手渡される仕組みのようです。

門脇中学校はライフライン問題なく、物資搬入には支障がない避難所です。ただ学校始業時期になると、避難者に対して行政から別の場所への移動要請が出たと後で知りました。仮設住宅できても避難者全員が移動できるキャパシティはなく、他に身寄りがある人ばかりではないので、このタイミングでの行政の指示は難しいところと思います。

日帰りで東京に帰るには時間がなくなってきた夕刻、石巻でも一番被害が大きかったと思われる市街へ最後の視察に行きました。

まるでゴーストタウン ランドセルがきちんと・・・

雨も降っているせいか、まるでゴーストタウンのようでした。距離的に海は直接見えない地区であるはずなのに、津波の影響で磯の臭いと、建物が倒壊して燻された臭いがしました。 この瓦礫の山を撤去するのに一体どれくらいの時間がかかるのか私には想像できませんでした。

最後に

今回は行政を通してでは、現地への物資は思うように届けることができない状況であった地区へ行きました。私達は誘導していただいた方を通じて、通行可能となったばかりの、孤立状態であった被災地へダイレクトに物資をお届けすることが出来ました。

現在の被災地の状況を見ても復興までには時間がかかります。一刻も早い復興を祈るのと同時に、長期的な支援を私たちはしていかなければならないと思いました。

(2011年5月某日 Y・K 筆)